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鹿児島地方裁判所 昭和46年(ワ)373号 判決 1976年3月31日

鹿児島市宇宿町一丁目四一の二〇

原告 八洲建設有限会社

右代表者代表取締役 今西哲男

<ほか二三名>

右二四名訴訟代理人弁護士 村田継男

右八洲建設有限会社訴訟代理人弁護士 樋口俊二

東京都千代田区霞ヶ関一丁目一番地

被告 国

右代表者法務大臣 稲葉修

右指定代理人 泉博

<ほか七名>

右当事者間の土地所有権確認等請求事件について、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

一  別紙分譲目録一、五ないし八、一二の2、二一の各土地につき、別紙図面(一)の

1  (ニ)部分のうち(N)(17)(16)(M)(N)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告門前賢志、同大井ツルの共有、

2  (チ)部分のうち(M)(16)(15)(L)(M)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告津留厚義の所有、

3  (ヌ)'部分のうち(K)(58)(No.10)(59)(56)(j)(K)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告米盛俊徳の所有、

4  (ル)'部分は、原告竹ノ内時義の所有、

5  (ヲ)部分のうち(I)(j)(56)(55)(I)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告前本伸、同本寺トシ子の共有、

6  (ウ)'部分のうち(No.3)(No.4)(No.5)(7)(6)(5)(No.3)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告村山平吉の所有、

7  (マ)部分のうち(5)(6)(9)(10)(17)(N)(5)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分および(L)(15)(11)(58)(K)(L)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分は、原告八洲建設有限会社の所有

であることを確認する。

二  原告門前賢志、同大井ツル、同津留厚義、同米盛俊徳、同前本伸、同本寺トシ子、同村山平吉、同八洲建設有限会社の別紙分譲目録一、五、六、八、一二の2、二一の各土地についてのその余の請求を棄却する。

三  原告米盛ヒサ子、同吉田隆、同宮脇兼治、同内田行男、同内田次男、同樋野ツギヱ、同松野保男、同村山平吉、同山口敦、同西陽三、同有木博、同有川芳弘、同吉田豪勝、同森山徳弘、同青木キヌコ、同今西キクの別紙分譲目録二ないし四、九ないし一一、一二の1、一三ないし一五、一六の1、2、一七ないし二〇の各土地についての請求を棄却する。

四  訴訟費用はこれを一五分し、その二を被告の、その一を原告門前賢志、同大井ツル、同津留厚義、同米盛俊徳、同前本伸、同本寺トシ子らの、その余をその他の原告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

(一)  別紙分譲目録記載のとおり別紙図面(一)のうち、

1 (ニ)部分は原告門前賢志・同大井ツルの共有、

2 (ホ)部分は原告米盛ヒサ子の所有、

3 (ヘ)部分は原告吉田隆の所有、

4 (ト)部分は原告宮脇兼治の所有、

5 (チ)部分は原告津留厚義の所有、

6 (ヌ)'部分は原告米盛俊徳の所有、

7 主文第一の4と同旨、

8 (ヲ)部分原告前本伸・同本寺トシ子の共有、

9 (ワ)部分は原告内田行男・同内田次男の共有、

10 (カ)部分は原告樋野ツギヱの所有、

11 (ヨ)部分は原告松野保男の所有、

12 (タ)'・(ウ)'部分は原告村山平吉の所有、

13 (レ)部分は原告山口敦の所有、

14 (ソ)部分は原告西陽三の所有、

15 (ツ)部分は原告有木博の所有、

16 (ネ)・(ナ)部分は原告有川芳弘の所有、

17 (ラ)部分は原告吉田豪勝の所有、

18 (ム)部分は原告森山徳弘の所有、

19 (ク)部分は原告青木キヌコの所有、

20 (ヤ)部分は原告今西キクの所有、

21 (マ)部分は原告八洲建設有限会社の所有

であることを確認する。

(二)  訴訟費用は被告の負担とする。

との判決

二  請求の趣旨に対する答弁

(一)  原告らの請求を棄却する。

(二)  訴訟費用は原告らの負担とする。

との判決

第二当事者の主張

一  請求原因

(一)  原告八洲建設有限会社(以下「原告会社」という。)は、昭和四三年六月二五日原告竹ノ内時義より別紙物件目録(一)の1、(二)ないし(四)記載の各土地を買受けて宅地に造成(一部埋立)し、右目録(一)の1、(二)、(三)の各土地については、同目録(一)の2記載のとおり合筆した。

(二)1  原告会社を除くその余の原告らは、右造成地のうち、別紙図面(一)の(No.1)(4)(No.2)(No.3)(No.4)(No.5)(7)(No.6)(9)(10)(No.7)(No.8)(No.9)(11)(58)(No.10)(59)(No.11)(60)(55)(54)(50)(49)(43)(42)(38)(37)(36)(35)(34)(2)(No.1)の各点を順次直線で結んだ線(赤線)で囲まれた部分(以下「本件係争地」という。)を、別紙分譲地取得経過表記載の経過で別紙分譲目録記載のとおりそれぞれ買受け又は交換して所有し、残地のうち道路敷地(同図面(マ)部分)は原告会社が所有している。

2  本件係争地は、右物件目録(一)の2記載の下橘木六七二三番と同目録(四)記載の同所六七二五番一に属するもので、埋立前である昭和四三年六月二五日当時の現況は満潮時に海水が覆う海没状態にあった。しかしこれは天災事変によって生じた一時的なものであるから、所有権は消滅していない。

(三)  しかるに被告は、原告らの所有であることを争い、本件係争地がすべて公有水面を埋立てた土地であると主張するので、本件係争地が原告らの所有であることの確認を求める。

二  請求原因に対する答弁

(一)  請求原因(一)の事実中、原告会社が昭和四三年六月二五日当時、別紙物件目録(一)の1、(二)ないし(四)記載の各土地を所有していたことは認め、その余の事実は知らない。

(二)  請求原因(二)1の事実中、本件係争地が原告らの所有であることは否認し、その余の事実は知らない。同(二)2の事実中、昭和四三年六月二五日当時本件係争地が満潮時には海没していたことは認め、その余の事実は否認する。すなわち、本件係争地は右のようにもと公有水面であった処を、原告会社が公有水面埋立法二条による埋立免許を得ずに不法に埋立てて造成したものである。

第三証拠≪省略≫

理由

一  請求原因第一の事実中、原告会社が昭和四三年六月二五日当時別紙物件目録(一)の1、(二)ないし(四)記載の各土地(以下「本件土地」という。)を所有していたことは当事者間に争いがない。

二  ≪証拠省略≫によれば、原告会社は本件土地を宅地に造成(一部海面を埋立てているが、それは公有水面埋立法所定の埋立免許に基づかないものである。)し、そのうち同目録(一)の1、(二)、(三)記載の各土地については、同目録(一)の2記載のとおりに合筆したことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  ≪証拠省略≫によれば、原告会社を除くその余の原告らは、本件土地のうち別紙図面(一)の赤線で囲まれた部分(本件係争地)を別紙分譲地取得経過表記載の経過で、別紙分譲目録記載のとおり原告竹ノ内、同米盛(俊徳)、同有川については交換で、その余の原告らについては売買により、それぞれ取得したことが認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

四  本件係争地が昭和四三年六月二五日当時満潮時には海水に覆われて海没状態になっていたことは当事者間に争いがない。

ところで、原告らは、本件係争地は前記二に認定のとおり別紙物件目録(一)の1記載の下橘木六七二三番(以下「旧六七二三番」という。)、同目録(二)記載の下橘木六七二四番一および同目録(三)記載の下橘木六七二四番四とを合筆した同目録(一)の2記載の下橘木六七二三番(以下「新六七二三番」という。)と、同目録(四)記載の下橘木六七二五番一に属するものであると主張するので、この点について判断する。

(一)  本件土地の所在について

≪証拠省略≫によると、次の事実が認められる。

1  鹿児島地方法務局谷山出張所備付の造成および埋立前の本件土地の字絵図は別紙図面(二)のとおりであるところ、字絵図上の六七二四番一は東側が海岸に面して細長い六七〇八番一(海浜部分に存在する部落共有地)で、南側は東側から六七二八番一、六七二五番一に、北側は東側から六七一〇番、六七一一番の一部に、西側は赤線道(別紙図面(一)の市道部分)に面して六七二四番四、旧六七二三番、六七二四番三にそれぞれ接し、そのうち六七二四番一、六七二八番一および六七一〇番だけが海岸に面する六七〇八番一に接するほかは内陸部に位置しており、昭和四二年当時には、右地番の各土地のうち、旧六七二三番、六七二四番一、六七二四番三、六七二四番四、六七二五番一の各土地、すなわち本件土地は、その範囲が本件係争地に及ぶか否かはともかくとして、本件係争地の西側にして、更にその西側にある右市道より東側部分に存在していたもので、原告会社が右本件土地を買受けた昭和四三年六月当時においても変りがなかったこと

2  明治二四年代に作成された土地台帳によると、六七二四番一の地目は山林で、旧六七二三番および六七二五番一は畑となっていたが、六七二四番一については昭和四三年一〇月五日に宅地に、旧六七二三番および六七二五番一についてはいずれも昭和四〇年三月一日に山林、次いで同四三年一〇月五日に宅地にそれぞれ地目の変更がなされ、昭和四三年一〇月当時における右各土地の地目は、公簿上はいずれも宅地であったこと

右のように認められ(る。)≪証拠判断省略≫

(二)  埋立前(昭和四三年七月当時)における本件係争地周辺の現況について

1  ≪証拠省略≫によると、次の事実が認められる。

(1) 乙第八号証の二の実測図(縮尺五百分の一)は、埋立前の本件係争地および周辺の土地につき、昭和四三年七月頃測量士内村某によって実測された後作成されたもの、乙第四号証の実測図(縮尺五百分の一)は、埋立後の本件係争地および周辺の土地につき、昭和四六年五月内之浦信利によって実測された後株式会社南日本コンサルタンツによって作成されたもので、原告会社は乙第八号証の二の実測図を基準に、同実測図の本件係争地東南側海中にある岩(東西に約一五メートル、南北に約二〇メートル、別紙図面(三)中基礎岩の一部と表示している岩)を六七二四番一と六七二八番一との東端における接点と考え、これを基点として埋立をなしたが、鹿児島県知事は、右乙第八号証の二の実測図を基準に本件係争地および周辺を撮影した航空写真や現地調査の結果を総合して、原告会社が埋立造成した土地のうち乙第四号証のNo.1ないしNo.12(別紙図面(一)のNo.1ないしNo.12と対応する。以下同じ。)を順次直線で結んだ線(以下「県の処分線」という。)より東側は公有水面であると判断するに至ったもので、各地点の距離と測角については右図面の表(一)に記載のとおりであり、No.1は原告会社が基点にした前記乙第八号証の二の岩の東側に位置すること

(2) そこで乙第八号証の二と同第四号証の各実測図を基点部分で重ねて対照すると、原告会社が本件係争地を埋立る前である昭和四三年七月頃の本件係争地付近の海岸は、No.1点にある岩(以下「基礎岩」という。別紙図面(三)参照)の西端から西側に約一四メートルの地点からはじまって鹿児島漁網の北側に添いながらNo.2を経てNo.3まで延長約三五メートルの石積の護岸(以下「北側護岸」という。乙第八号証の二中の右基礎岩の西側に表示されている東西にほぼ直線で築造されている護岸。)があって、その西側は同護岸の西端(No.3)からNo.4まで南側に折れ、そこからNo.5まで東西に約一二メートルの土手に囲まれた入江となっていたが、No.5からはNo.6を経て北側に湾曲する形をとり、No.5からNo.12までの各点を順次直線で結んだ県の処分線にほぼ添ったところに、鹿児島湾における朔望平均満潮面(新月と満月を中心とした五日間の満潮位の平均)による満潮位を示すプラス二・九〇線(以下「満潮時の水際線」という。)があって、そこから西側は広いところで約二・五メートル、狭いところで一メートル未満の幅をもった砂浜となっていたこと、そしてこの砂浜の西側は、No.12付近からはじまって南側に延びていた山の崖下部分と接していて、その崖は南下するに従って徐々に高くなり、No.5ないしNo.8付近で一番高くなって約七メートルにも達し、右山の南東端は丸平水産冷蔵庫(以下丸平水産」という。)の北西端付近であって、そこから南側はその南側に延びている市道付近まで小高い土手となっていたこと、一方前記北側護岸の東端から南側は、本件係争地の南側にある島津護岸(島津藩時代に間知石で築造された護岸。別紙図面(三)参照)の北端を北端に延長した線上から北側護岸にほぼ平行して東西に築造されたL字型の土手があって、その土手の北東端(土手の曲り角)から約一〇メートル東側の海中には直径約一〇メートルのほぼ円型をした岩(乙第八号証の二中に表示されている前記基礎岩の南側に存在する岩)があって、これとL字型土手東側の中間を、北側護岸の東端から南西に約二メートル地点から発したプラス二・九〇の満潮時の水際線がやや南東に曲りながら通っていたこと、基礎岩のNo.1地点は右水際線の北端から約二八メートル、基礎岩の西端は右土手の北東端から約二〇メートルそれぞれ東側の位置にあって、L字型土手で囲まれた陸地部分は鹿児島漁網の前庭部分となり、それより西側は丸平水産の敷地となっていたこと、そして、その更に西側には南側市道に面して一部竹山となっている空白部分があって、そのまた更に西側は右の市道から北側に崖の付近まで延びた幅約四メートルないし三メートルの山を崩した切り込み部分があり、そこから西側には市道に面して畑(乙第八号証の二中に畑と表示している部分)があったこと

右のように認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

2  ≪証拠省略≫と右認定の(一)の1、2、(二)の1の(2)の各事実を合わせて考えると、次の事実が認められる。

(1) 昭和四三年六月当時、本件係争地の西側には海岸に面する部分が崖状となった原告竹ノ内時義所有の六七二四番一の山林があって、その南東端は丸平水産の北西角から少し西寄りの処まで延び、そこから南側は有川武春所有の六七二八番一の田に生えた竹藪の小高い土手であった。そして、その西側には南側の市道に面して六七二七番一の畑があったこと、またその更に西側には原告会社に売渡した昭和四三年六月頃まで耕作していた右竹ノ内時義所有の六七二五番一の畑があったが、同人は隣地が土砂採掘をしたので、自己の所有地が侵奪されるのを防止するために、六七二五番一の東側から六七二四番一の南側No.5の付近まで(前記切り込み部分)甲第四〇号証の三のようにブルドーザーを入れて切り崩したこと

(2) 有川武春は、その所有する六七二八番一のうち丸平水産の敷地部分については岩盤のために掘り下げられなかったので、その東側(鹿児島漁網側)だけを一段だけ掘り下げ、田圃として耕作していた(尤も昭和四三年八月末頃の現況は畑)が、その西側(丸平水産と鹿児島漁網との境界付近)にはシュロの木二本が植えてあったこと

(3) 本件土地の西側および南側に隣接している六七二五番二、六七二六番、六七二七番二は市道敷地となっており、六七二八番一に隣接する同番二についても市道敷地として買収されていること

右のように認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

≪証拠省略≫のうちには、原告竹ノ内がブルドーザーで切り崩した部分の位置について、乙第三号証にの表示で記入されているように、前記竹山の部分から丸平水産の北西端を通り、海側から三段目の区画(同号証中にと表示している部分)中の丸平水産側通路の中央付近(別紙図面(一)の17、19、22の各点を順次直線で結んだ線の中央付近)までとか、あるいは右図面のNo.5から22のところまで斜めにあった旨の証言、供述がある。

しかしながら、≪証拠省略≫によると、昭和二三年三月から同三九年五月までの航空写真には、六七二五番一の畑および六七二四番一の山林に海岸まで達するような切り崩し部分はないのに対し、昭和四一年九月以降の航空写真には右部分を切り崩した形跡が認められ、それは前記切り込み部分の位置と形状において一致していることが認められることに照らして考えるとたやすく措信することはできず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

3  ≪証拠省略≫によると、昭和三九年五月二六日当時における本件係争地および付近の状況は、島津護岸(別紙図面(三)参照)の北端を北側に延長した線上から西側に折れる状態で築かれた土手(前記L字型土手)の東側が砂浜で、その東側には土手から北側に行くにつれて徐々に離れる形の位置に岩があって、右土手の西側陸地部分は四角形の土地(前記有川の田)で、その北側には前記北側護岸が築かれていたが、海岸線は右北側護岸に添いながら西側に入江状となり、北側から南側に延びた山の南東端付近からは山裾に平行しながら北側に湾曲する形状で、その北側は通称赤岩(丸平水産の北側から北方へ約三〇〇メートル地点にある岩壁で、赤味を帯びた色をしている。別紙図面(三)参照)に達していたが、右の山(六七二四番一の山で、赤岩付近から南に延びた山とは別)は、海岸側を底辺に、西側市道付近を頂点とした三角形の形状をなし、その南東端は右四角形の土地の西北先まで延びていて、右山の南側山裾の南西下には六七二五番一の畑地(乙第八号証の二中に畑と表示した部分)があったことが認められる。そこで、乙第四〇号証の航空写真を乙第八号証の二の実測図と対照すると、本件係争地付近の海岸線の形状、山、田、畑の存在とその位置形状などについて、前記切り込み部分を除いてほとんど変りのないことが認められる。

4  以上の1ないし3で認定した各事実によると、昭和三九年五月当時から昭和四三年七月当時までの本件係争地付近の海岸線は、県の処分線にほぼ添った位置に存在し、その間に顕著な変化がなかったということができる。

(三)  そこで昭和三九年以前における本件係争地周辺の状況について検討する。

≪証拠省略≫によると、次の事実が認められる。

(1)  大日本帝国陸地測量部によって明治三五年に測図された甲第四四号証および乙第四四号証の各地図(縮尺二万分の一で同じもの。)は、その後内務省地理調査所によって昭和七年に要部修正がなされ、次いで同一〇年に部分修正、同二八年に応急修正が、更に同三六年に国土地理院によって修正測量がなされているが、本件係争地付近の海岸線および内陸部の形状については、地図上は明治三五年から昭和三六年まで顕著な変化はみられない。しかし国土地理院が昭和四一年に測量して作成した乙第四八号証の地図(縮尺二万五千分の一)では本件係争地付近の海岸線が埋立当時と同様の形状で表示されている。

(2)  そこで明治三五年の地図と、昭和四六年二月に本件係争地および周辺を撮影した航空写真に基づいて国際航業株式会社が調整した乙第五〇、五一号証の図面を対比すると、本件係争地の南側にある障子川と島津護岸に囲まれた字坂元の田、西側市道および北側赤岩付近に至る内陸部、海岸線の各形状、七ツ島の存在とその位置関係(別紙図面(三)参照)などにつき、両者は大略一致し、特に海岸線については、いずれも島津護岸の南東端と本件係争地から赤岩を経て北側に延びた海岸線の北東に突出した端(七ツ島のうち標高七メートルの島の南)とを直線で結んだ線の西側に入り込んでゆるやかに湾曲し、右地図の障子川から少し北側で、海岸線の少し東側海中(本件係争地東側海中)に表示されている岩(別紙図面(三)参照)および右乙第五一号証に表示されている基礎岩の東端はいずれも右線の西側に存在する。

(3)  ところで、乙第四九号証は鹿児島県事務吏員が右の乙第五〇、五一号証の図面(縮尺二千分の一)を基準に、明治三五年の地図にも表示のある障子川上流の二股になった処の北側に掛けられた橋と七ツ島のうち一番陸地に近い島(前記標高七メートルの島)を基点にし、これらの各中心点間の距離関係から算出した比率によって、明治三五年の地図については二万分の一を、右乙第三九号証の航空写真(一九四八年三月二日撮影)については四千八百分の一を、右乙第四〇号証の航空写真(昭和三九年五月二六日撮影)については六千七百分の一をいずれも二千分の一の縮尺に直したうえ、それぞれについて右の二点および現在の国道、その他の分岐点を重ね、また乙第四号証および乙第八号証の二の各実測図(いずれも縮尺五百分の一)については、それぞれ二千分の一の縮尺に直したうえ、基礎岩とNo.3、No.4の地点にある杭、北側護岸の各地点をそれぞれ重ねて得られた明治三五年、昭和二三年、同三九年、同四三年七月頃の各海岸線と県の処分線を表示した図面で、この図面によると明治三五年の海岸線(以下「明治三五年線」という。)は、島津護岸の南東部(この地点では昭和二三年、同三九年の各海岸線とも大体一致している。)から同護岸を北上し、そのほぼ中央付近から内陸部に入り、丸平水産の東側からその北東端のやや西側を通って本件係争地に入り、昭和四三年七月頃の海岸線(以下「昭和四三年線」という。)より丸平水産の北側付近で約二〇メートル、更に北側に約二〇メートル地点では約三〇メートル(両線の東西の幅)東側をほぼ同線に平行しながらゆるやかに湾曲して赤岩付近の約一五メートル東側を北上し、七ツ島のうち標高七メートルの島の南側にある海岸線の北東に突出した端(この地点では昭和三三年、同三九年の各海岸線とも一致している。)に至るもので、丸平水産付近の明治三五年線から基礎岩の東端までの距離は約六〇メートルである。その他の海岸線は概ね島津護岸から基礎岩付近を通って西側に折れ、丸平水産の北側から北に湾曲する形状で、本件係争地の西側においては、明治三五年線が一番東側で、以下昭和二三年、同三九年の各海岸線、同四三年線の順で西側に移動し、県の処分線は昭和四三年線より若干東側に出ているもののほぼ両線は一致している。これらの各線のうち明治三五年線と昭和四三年線は満潮時の水際線を示しているのに対し、昭和二三年、同三九年の各線は基礎となった各航空写真の撮影時刻が満潮時と一致しておらず、特に昭和三九年線については、前記乙第四〇号証が満潮時から約四時間半後、したがって相当に潮の引いた時刻に撮影されたものであることから、実際の満潮時における水際線よりはかなり東側に出た形を示していて正確な水際線ではない(尤もこれらの昭和二三年線および同三九年線については、少くともこれらの線までは当時既に海水に覆われていたことの証左となることは勿論である。)。しかも本件係争地は遠浅の海岸で、潮位が一メートル違うことによって水際線が一〇メートルないし二〇メートルは違ってくるような極めて干満の差が大きい場所であったこと

右のように認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

右(1)ないし(3)の事実によると、乙第四九号証の図面は信用することができ、明治三五年線は、前記(二)の2の(2)で認定したとおり、丸平水産の敷地部分は岩盤で西側は山となり、他方東側は田圃で一段と低くなった地形を形成していたのに対応して、右田圃のあった付近の丸平水産の東側を通っていること、島津護岸の南部および七ツ島付近の海岸線の北東に突出した端では昭和二三年、同三九年の各海岸線と一致していることなどから考えて、当時の測量技術や縮尺が二万分の一であること、本件係争地付近が遠浅で干満の差が著しく大きな処であることなどから或る程度の誤差があることは免れないとしても、明治三五年当時の満潮時の水際線を窺わせるに十分であるということができ、本件係争地西側の山(六七二四番一)の東側傾斜部分は、海浜部分にあった部落共有地を含めて明治三五年以降徐々に浸食がすすんで満潮時には海水に覆われる状態(海没)を形成し、昭和四三年頃までの間に少くとも二〇メートルないし三〇メートルの範囲で、水際線が次第に西側に寄っていったことは明らかであり、昭和二三年線はその一経過を示すものということができる。

(四)  次に本件係争地西側の状況について検討する。

1  ≪証拠省略≫ならびに前記四の(一)、(二)に認定した各事実を合わせて考えると、次の事実が認められる。

1  昭和四三年当時、本件係争地の北側の山は赤岩付近から南側に六七〇七番と六七〇八番、六七〇九番、六七一〇番の山(標高三〇メートル)で、その西側内陸部には別紙図面(二)の字絵図に表示されてある通りの各土地があった。山の形状は、西側内陸部において明治三五年頃から昭和四六年当時まで大きな変化はなく、六七一〇番の南側山裾は別紙図面(一)のNo.12付近から約二〇メートル西側の付近まで延びていた。本件係争地西側の六七二四番一の山(後記2で認定するように標高二〇メートルで付近一帯はシラス土壌。)は右No.12付近から南下するにつれて徐々に高くなり、同図面のNo.7とNo.8を直線で結んだ線から約九メートル西側付近の地点(昭和四三年七月頃の崖の上縁線)に頂上部分があって、右山の南東端は、明治三五、六年頃までは丸平水産の北西の角付近まで延びていて、昭和四三年当時の崖下(同図面のNo.6付近)から東側に約二〇メートル位のところ(丸平水産の北側にある小屋の西側付近、同図面参照)までは陸地で、右の山は、その東側が海沿いに人の登り降りのできるような、なだらかな斜面となって右の陸地を形成し、その山裾は砂浜に接していた。六七二四番一を含む山の形状は、その内陸部においては、明治三五年当時から昭和二三年当時を経て同四三年当時まで顕著な変化はなく、東側海岸沿いの部分においては、幾度となく襲った台風や斜面のシラスを採取したことなどから斜面部分は徐々に浸食されるに至り、昭和二三年頃には海浜部分にあった前記部落共有地付近まで浸食がすすみ、その後、昭和二六年一〇月一四日鹿児島県下を襲ったルース台風(最大風速四六メートル、最低気圧九四七ミリバールの規模で、大潮と重なったため高潮を引き起こし、薩摩半島の海岸線に多大の被害をもたらした。)による浸食作用によって山の斜面部分は大きく崩壊流失し、その後もしばしば台風の高潮等による浸食崩壊が続き、昭和四三年当時における東側海岸沿いの形状は、斜面部分の大部分が流失して≪証拠省略≫に見られるような切り立った崖状を呈するに至り、六七二四番一については山の中腹付近からあった東側斜面部分の全部が浸食される結果となったこと

(2) 本件係争地付近の海岸は、元来遠浅で干潮時には≪証拠省略≫に見られるように海底が露出し、明治の後年から昭和初期頃まで大潮の時を除いては別紙図面(一)のプレハブ小屋の東側付近まで潮がきて、そこから西側は砂浜となっていたが、大潮の時にはそこから更に西側に約二〇メートルのところ、すなわち、鹿児島漁網の北側にあった北側護岸の西端(同図面のNo.3)付近ないし本件係争地の東側にあるコンクリート擁壁から西側に向って三段目の区画(同図面の(ニ)、(ホ)部分)の中間付近まで潮がきて、そこから湾曲して赤岩の東側約一五メートル地点に至る満潮時の水際線を形成していた。ところで、右水際線の西側には本件係争地周辺の野頭、影原、向原、草野、光山の部落住民(二一六名)が明治四五年一月九日に内務省から払下げを受けた幅三間の帯状をした共有地(六七〇八番一)があって、その西側の山裾部分を含めて昭和四三年頃まで(後年は干潮時に)部落民が牛や馬の運動場や網干場として利用していたこと

2  ≪証拠省略≫によると、前記乙第五〇、五一号証の図面上の赤岩のすぐ西側で、家の表示が一つある(橘木六六六五番二宅地)土地の東側の山(橘木六六六八番)から、その南側の山(下橘木六七〇七番)までは一〇メートルの間隔で引かれた等高線が四本あるが、更にその南側で家の表示が三つまとまってあるところ(下橘木六七〇一番、同所六七〇二番)の東側にある山(下橘木六七〇九番)になると等高線は三本に減少している。ところで、明治四五年に測図された地図(乙第四四号証)には等高線の間隔を示す単位は明記されていないが、右乙第五〇、五一号証の右各場所に相当する赤岩のすぐ西側には家の表示が一つあって、その付近には四本の等高線が引かれているし、同地点から少し南側の家が三つまとまって表示されている付近では等高線は三本となり、更にそこから南側、すなわち下橘木六七一〇番、同所六七二四番一に該当する部分には二本の等高線が引かれているのに加えて、昭和四一年に測量されて作成された前記乙第四八号証の地図には等高線の間隔は一〇メートルである旨の記載があって、六七二四番一の南端付近に不整形ではあるが二本の等高線が引かれていることから考えると、結局六七二四番一の標高は二〇メートルであること

右のように認められ、他に右認定を覆すに足りる証拠はない。

≪証拠省略≫には、六七二四番一の山の位置について、乙第三号証に記入されているように海側から三段目の区画中央付近(で表示している部分。)が山の頂上付近であったとか、あるいは別紙図面(一)の(チ)、(ホ)、(ニ)のあたりであった旨の証言、供述があり、また≪証拠省略≫には、六七二四番一と六七〇八番一(部落共有地)の境界は、基礎岩と赤岩ないし人焼場(赤岩のすぐ北側の窪地で昔人を焼いていた処、別紙図面(三)参照)を結んだ線であるとか、右線より更に三〇メートルないし五〇メートル東側である旨の証言、供述がある。

しかしながら

(イ) 前記(二)の1、2に認定したとおり、六七二四番一の山は標高が二〇メートルで、原告竹ノ内時義がブルドーザーで東側の海岸に達するまで切り崩した処は、別紙図面(一)のNo.6とNo.7の間であること

(ロ) ≪証拠省略≫ならびに前記(一)の2に認定した事実を合わせて考えると、①旧六七二三番は三畝一八歩(三五七平方メートル)の畑、②六七二四番一はもと三畝二八歩(三九〇・〇八平方メートル)の山林、③六七二五番一はもと三三〇平方メートルの畑、④六七二四番四はもと一〇歩(三三・〇五平方メートル)の山林、⑤六七二八番一はもと四八平方メートルの田であったものを、原告会社が埋立造成後実測に基づき、①については一六一五三・七四平方メートルに、②と④については右地積どおりに①と合筆して一六五七六・八七平方メートルに③については一〇四一・九四平方メートルに、⑤については二八五三平方メートルにそれぞれ地積の更正がなされ、①については約四五倍、③については約三倍、②と④については公簿面積で①と合筆されているから結局新六七二三番については約四五倍、⑤については約四八倍の増積となるのに対し、本件土地の南側に隣接する字坂元に属する田および原野(島津護岸西側の合計四六筆、別紙図面(三)参照)の旧土地台帳による面積の合計は一六五八八平方メートルで、右乙第五一号証の図面を基礎に右字坂元の土地を求積したところによると、一八二八六平方メートルであって、全体的に約一・一倍の増積に止まっていることが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右(ロ)の事実によると、新六七二三番(実質は六七二四番一)、六七二五番一および六七二八番一の増積は、隣接地との比較からみて通常予想されるいわゆる「繩延び」の程度をはるかに越えるものということができること

(ハ) 前掲記甲第三三号証、乙第五四号証の一の本件係争地の字絵図(別紙図面(二))によると、係争地東側の海岸線は六七二八番二の付近では東側からやや西側に湾曲して北に延び、同番一付近でやや東側にふくらみながら東北端で一旦西側に曲って北側に湾曲する形状を示していることが認められるが、明治四五年の海岸線が前記認定のように段差のある丸平水産と鹿児島漁網との境界(別紙図面(一)のNo.2の南側付近から丸平水産の東側に添って、東南に記号で表示されている。)付近を通っていることから考えて、右字絵図上の六七二八番一、二付近の海岸線の位置は、右の境界付近と考えることができる。そこで、右事実と前記(ロ)の地積の増積程度から総合すると、六七二八番一の土地は元来狭隘なものだったが、いつの頃からか、地形や海流の関係からその付近の海岸に砂が堆積して寄洲ができ、そこに土手などを築いて大きな土地が造られたと推認できること

(ニ) ≪証拠省略≫中には、甲第四〇号証の四の手前に写っている、中を刳り貫いて石積した跡のある低い岩を私有地(六七二四番一および六七二八番一)と部落共有地との境界を示すものとして埋立の基点とし、その岩の所在位置は別紙図面(一)のNo.1付近であるとの判断に基づいて、コンクリート擁壁を築造した旨の証言、供述があるけれども、≪証拠省略≫ならびに前記四の(二)で認定した各事実を合わせて考えると、右甲第四〇号証の四の手前に写っている刳り貫いた跡のある平たい地石は、その位置、形状、大きさ等に徴し、右地石と別紙図面(一)のNo.1にある基礎岩とが同一のものであるとは断じ難く、右証言、供述はにわかに措信することができない。

(ホ) ≪証拠省略≫ならびに前記(三)の(2)・(3)、(四)の2の(ニ)で認定した事実を合わせて考えると、乙第三九号証(航空写真)の石積護岸の東端(島津護岸の北端を北側に延長した陸地の北東端)にある大きな岩および甲第四四号証(乙第四四号証と同じ地図)に一つ表示されている本件係争地東側海中の岩は、いずれも島津護岸の南東端と本件係争地から北側に延びた海岸線の北東に突出した端(七ツ島のうち標高七メートルの島の南側)を直線で結んだ線の西側にあるのに対し、基礎岩の東側海中にある岩(乙第三九号証に白く点になっている海中に写っている岩で、乙第三号証の航空写真ではNo.1の基礎岩の東側の海中に鮮明に写っており、基礎岩に比べて極めて小さな岩である。別紙図面(三)参照)は右直線の東側にあること、基礎岩の周辺には、他に同程度の大きな岩はないことが認められ、これらの事実によると、甲第四四号証の本件係争地東側海中にある岩は、埋立の基点となった基礎岩と考えられること

以上のように認められ、右(イ)ないし(ホ)の諸点に照らして考えると、前記六七二四番一(山)の頂上の位置および同番地と六七〇八番一との境界についての各証言、供述はたやすく措信することはできず、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。

五  以上四の(一)ないし(四)で認定した各事実、とくに(1)明治三五年線が本件係争地付近における当時の水際線を窺知しうるものであるところ、明治三五年以降昭和四三年頃までの間に、少くとも二〇メートルないし三〇メートルの範囲で水際線が東側から陸地のある西側に移動していること、(2)本件係争地西側は六七二四番一の山で、その標高は二〇メートルに達し、別紙図面(一)のNo.7とNo.8を直線で結んだ線の約九メートル西側付近が頂上部分になっていたが、その東側はゆるやかな傾斜となって海浜部分に接し、右山の南東端は丸平水産の北側にあった小屋の西側付近まで延びていたこと、(3)明治の後年から昭和初期頃までの大潮時における海水は、右図面のNo.3付近ないし本件係争地の東端にあるコンクリート擁壁から西側に向って三段目の区画(右図面の(ニ)と(ホ)部分)の中間付近まで来ていたことなどを総合すると、別紙図面(二)の字絵図上に表示された六七二四番一の東側海岸における明治後年から昭和初期頃までの満潮時の水際線は別紙図面(一)のA地点から、同図面のB地点を経て同図面のE地点まではゆるやかに湾曲し、そこからは概ね県の処分線に平行して、同図面のF、Hの各地点を順次直線で結んだABCDEFGH線上にあって、これより東側が遠浅の公有水面(後記五の(二)参照)で、西側が三間幅の部落共有地(海浜)を挾んで、同図面のNo.3、5、N、M、L、K、J、Iの各地点を順次直線で結んだ線まで六七二四番一(地目山林)の山裾が西側から東側に向けてなだらかに延びていたのであったが、高潮などによる崩壊流失が繰返されて、昭和二三年頃には右共有地の海浜付近まで浸食がすすみ、その後昭和二六年に当地を襲ったルース台風の高潮によって大幅に浸食され、その後も浸食崩壊が続き、ついに昭和四三年七月頃には、県の処分線の西側近くまで崩壊し、満潮時になると右処分線まで海水に覆われるようになったものということができる。

そうすると、元来本件係争地のうち、別紙図面(一)の(ウ)'、(ニ)、(チ)、(ヌ)'、(ル)'、(ヲ)、(マ)の各土地は、同図面の青斜線の各範囲においてすべて六七二四番一の山であり、その余の各土地は部落共有地および遠浅の公有水面であったといわなければならない。

六  そこで海没した右土地の私所有権が消滅したか否かについて検討する。

(一)  ところで、自然現象によって私人の所有する土地が崩壊流失し、春分および秋分の満潮時に海水に覆われて海没した場合における右土地の所有権の帰すうについては明文の規定もないところ、原告らは、「自然海没地の所有権は、その海没の原因が天災事変による一時的なものである場合には私人の所有権は消滅しない」と主張している。

しかしながら、自然海没地として問題となるものの多くは、本件係争地のような干潮時に地盤が露出するか、少くとも浅瀬であると思われるところ、かかる場所については、私人間で売買取引がなされて利用価値も高いことなどから考えて、なお相当の財産的価値があるというべきであるから、右のような自然海没地を、海没状態が単に一時的ではないからという理由で、私人の所有権は消滅したとして、直ちに無償で国に帰属させることには多大の疑問が存するといわなければならない。したがって、自然現象により私人の所有する土地が海没した場合であっても、所有者が当該土地に対して社会通念上自然な状態で支配可能性を有し且つ財産的価値があると認められるような場合には、当該土地に対する私人の所有権はなお失なわれないものと解するのが相当である。

(二)  これを本件についてみると、前記四の(三)の(3)、(四)の1の(2)で認定したとおり、本件係争地付近は、元来潮位が一メートル違うことによって水際線が一〇メートルないし二〇メートルも違ってくるような遠浅の、干満の差が著しい海岸であったところであり、数度に及ぶ高潮によって徐々に浸食がすすみ、昭和二六年に当地を襲ったルース台風による高潮によって山の斜面部分が大幅に浸食されて崩壊、流失した別紙図面(一)の青斜線部分を含む本件係争地付近は、昭和四六年頃においても、干潮時になると≪証拠省略≫に見られるように海底が露出して陸地となるような状況にあったし、満潮時を除けば、右青斜線部分やその東側にあった部落共有地部分は、昭和四三年頃まで家蓄の運動場や網干場としての利用に供されていたことなどに鑑みると、右青斜線部分については、本件埋立直前頃まで常時、継続して海面の敷地となっていたのではないから、所有者は依然として右敷地部分に対して支配可能性を有していたということができ、また≪証拠省略≫によると、右青斜線部分の東側に隣接し、満潮時には海水に覆われていた部落共有地は、既に鹿児島開発事業団に売却されていることが認められ(なお、本件係争地(第一、二回)および島津護岸の各検証の結果によると、本件係争地の東側海岸は、既に遙か沖合まで埋立てられて広大な陸地を形成し、本件係争地と陸続きとなっていることが認められる。)これらの事実によれば、右部落共有地よりも更に陸地に近いところにあった右青斜線部分についても埋立て当時においてなお相当程度の財産的価値を保有していたことは明らかであるといわなければならない。

そうすると、右青斜線部分は、社会通念上自然な状態で支配可能性を有し且つ財産的価値のある場所であったということができるから、海没によって私人の所有権が消滅する場合に該当しないことは明らかであるといわなければならない。

してみれば、本件係争地のうち右青斜線部分については、原告会社に売渡す時点においても原告竹ノ内の所有権は消滅していなかったわけであるから、原告会社は有効な所有権を取得して埋立てをしたということができ(海底地盤が私人の所有に属する私有水面を埋立てる場合には単に警察上の取締規制を受けるのみで(海岸法八条一項三号参照)、埋立免許はいらない。)、右青斜線部分に該当する原告村山、同門前、同大井、同津留、同米盛(俊徳)、同竹ノ内、同前本、同本寺らがそれぞれ原告会社からその所有権を有効に取得したことは明らかである。したがって、右青斜線部分の地盤が国の所有に属することを前提として、右部分も公有水面であった旨の被告の主張は理由がない。

七  結論

以上のとおりであるから、原告らの本訴請求のうち、原告村山、同門前、同大井、同津留、同米盛(俊徳)、同竹ノ内、同前本、同本寺らが原告会社から譲り受けた別紙図面(一)の(ウ)'、(ニ)、(チ)、(ヌ)'、(ル)'、(ヲ)の各土地および原告会社の同図面(マ)の道路敷地のうち、原告竹ノ内の(ル)'部分および原告村山の(ウ)'については、同図面中、(No.3)(No.4)(No.5)(7)(6)(5)(No.3)の各点を順当直線で結んだ線をもって囲まれた青斜線部分、原告門前、同大井の(ニ)については同図面中、(N)(17)(16)(M)(N)の各点を順次直線で結んだ線をもって囲まれた青斜線部分、原告津留の(チ)については同図面中、(M)(16)(15)(L)(M)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分、原告米盛の(ヌ)'については同図面中、(K)(58)(No.10)(59)(56)(J)(K)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分、原告前本、同本寺の(ヲ)については同図面中、(I)(J)(56)(55)(I)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分、原告会社の(マ)については同図面中(5)(6)(9)(10)(17)(N)(5)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分および同図面中、(L)(15)(11)(58)(K)(L)の各点を順次直線で結んだ線で囲まれた青斜線部分について各所有権の確認を求める請求は、右の限度で理由があるのでこれを認容し、(ウ)'、(ニ)、(チ)、(ヌ)'、(ヲ)、(マ)の各土地のうちの右各部分を除くその余の各部分および右以外の原告一六名の別紙図面(一)中、(ホ)、(ヘ)、(ト)、(ワ)、(カ)、(ヨ)、(タ)'、(レ)、(ソ)、(ツ)、(ネ)、(ナ)、(ラ)、(ム)、(ク)、(ヤ)の各土地についての所有権の確認を求める請求は、いずれも理由がないので棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 大西浅雄 裁判官 湯地紘一郎 裁判官 谷合克行)

<以下省略>

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